借りっぱなしのオーバードライブ~春が来る前に逝く


水曜日の帰り道。
22時ごろだったかな。
キヨからの着信があった。
近くで働いているからたまに
呑もうと連絡くれることがあるけど
それにしては遅いなと思ってとりあえず
「悪い、電車で気付かなかった」と
メールすると
「電車降りたら電話して」との返信。
予感がした。
メールで書けないこと・・
いや、でも違うかも。
たぶんきっと別のことがあって
とかいろいろ考えながら
ひとまず家に着いてから
かけ直してみた。
「丸田さん、亡くなったって」
ああ。
ついにその日が来てしまった。
あたしのバンド
ローディングロデオのリーダー、
ギタリストコージー。41歳。
肺ガンが原因で2年間
苦しんでいたのだけど。
そのコージーが亡くなってしまった。
キヨによれば
今一緒にいるすがっちが
その日の朝、コージーにメールしたのを
奥さんが気付いて
連絡くれてわかったって。
あとで聞いたところ
奥さんも気が動転していて
そのメールがなければ
誰にも連絡しそびれていた、とのこと。
それにしても。
なんで会いに行かなかったんだろう!
ものすごく後悔した。
何度か入退院をくりかえしてた2年あまり。
調子がいいと「スタジオ入ろう」って
発病してからも何度かスタジオに入ったり
呑んだりもした。
でも
去年の9月のスタジオの数日前
「急に入院することになり
スタジオいけなくなりました、ごめん」
というメールが来た時は
相当悪かったのだと思う、
今思えば。
それまで
とにかく毎週のようにメールすると
特に入院している時は喜んでくれて
「アネキだけだよ~連絡くれるのは」
なんて返信もくれてたのに
その9月以来ぱったり連絡が来なくなった。
ともかくよくはわからないけど
お見舞い行くにも
今病院なのか家なのかもわからないし、
と迷っているうちに
もう年末。
メールだけはしつこく
出してはいたのだけれど。
と、久しぶりに
ヴォーカルまさきからメール。
「今コウジさんの家にいます!
とりあえず元気です!」
といううれしいメールが来て
ほっとしたけれど
この時なんで
すぐ電話して
コージーに代わってもらわなかったのか
それから日をあけずに
自分も押しかけなかったのか
いろいろ後悔する。
とりあえず
テンパってメンバーに電話すると
一瞬のうちにみんなにも伝わっていたらしく
お互いに沈んだ声。
「5日に亡くなったらしいんです」
「お葬式とかやらないみたいです」
「お墓は九州で」
というような事実が
少しずつ明らかになってきて
「何か動くときは伝えて」と言うと
「明日行こうと思っています」と言う。
19時ごろに葬儀屋さんに連れて行かれてしまうので
迷惑にならない夕方のうちに
会わせてもらおう、という話で。
「わかった、あたしも行かせて。
仕事半休にする」
喪服を出しながら気付く。
去年震災の影響で亡くなった同僚のお葬式に
借り物で出たあたしは
すぐに喪服を作ったのだった。
ああ、喪服なんて作ったから
コージーの死を招いた。
もう何を考えても
涙があとから出てきて止まらない。
なんであんないいやつなのに
こんな目にあわなくちゃいけないの?
何も悪いことしてないのに!!って
とにかくその日は眠れなくて
自分たちのライヴのビデオを見たり
3時ごろまで何も食べずに
ビールを呑み続け
泣き続けてた。
そしたら寝坊して1時間遅刻してしまった。
休んでしまおうかとも思ったけど
昼までは、と仕事の形をつけに出社。
ライヴにも来てくれた同僚☆に
話をしても泣く、
社長に早退の旨を告げるのでも泣く、
PCの画面見ていても泣く、
そしてビールがたたったのか
胃がきゅんきゅん痛くなって
席にすわっているのがやっとだった。
そして家に帰り
うらめしい喪服に着替え
向かうは「藤が丘」。
流産した時に通っていた病院もここだった。
ああ、忌まわしい駅になっちゃったな。
そこへ
川崎から2台の車で
ヴォーカルまさき、
すがっち夫妻、
麦たば夫妻、
うめちゃん、
ぴでちゃん一家が到着。
電車で来た
ドラマーヤストキ、
群馬からはるばる来た
ベーシストとりちゃんともども拾ってもらう。
マンションに着くと
車を停める場所がなく
うろうろしていると
奥さんが出てきれくれる。
このお方、コージーの
最初の奥さんで
なんと発病してから
もとの鞘に戻ったという
なんとも見上げたお方なのだ。
この日の彼女の働きもすごかった。
部屋に入ると
リビングの窓際のふとんに
横たわったコージーがいた。
最後に会ったやせこけた顔よりもずっと
ふっくらしてみえて
治療のためかずっと丸刈りにしていた頭も
かなり髪が伸びていて
眠ってるみたいだった。
神妙な面持ちで
お線香をあげるあたしたちの横で
「こうちゃん、よかったね
たくさん来てくれたよ」
「痛みから解放されて
安らかな顔してるでしょう、
たぶんこのへんにいて
みなさんの訪問喜んでますよ」
という明るいくらいの奥さんの言葉に
言葉を失っていた一同も
ぽつぽつと思い出話を始める。
「24時すぎるとこういう顔して
居酒屋で寝てましたよ、よく」
なんて言うすがっちの言葉に
笑いながら涙もぼろぼろ流れる。
コージーのご両親、
弟さん夫妻に
麦たばのマスターが
写真を見せて
コージーとの思い出を語る。
小さい子供たち三人は
どれくらいわかってるんだろう?
それに対して
奥さんが最後の日々を
語ってくださったりして
ああ、この奥さんがいてくれて
最後コージーはしあわせだったんじゃ
ないかしらって思う。
遊び人で
結婚も何度か
子供も方々にいるらしいコージーだけど
こんなにしてくれる人なんて
なかなかいないよ。
内弁慶でなぜか妻には
つらくあたる、という噂もあったけれど
あたしにはまったく想像できない。
だってあたしたちには
ほんとうにやさしいやつで
少し気が小さくて
でもカリスマ性があって
世話焼きで
さみしがりやのコージー。
ほんとうに思ってくれる奥さんと
ほっぽらかしにしてた三人の子供たちとの再会が
少しはひどい痛みをやわらげることが
できたんじゃないかな。
それは四六時中一緒にいるわけではない友達には
難しい、家族の愛なんだよ、コージー。
それはわかってたんだと思う、
最後の定期入院をすごくいやがって
「家にいたい」と言うのに
無理矢理入院させられた5日後に亡くなったというから。
今度こそ帰れない、と
彼自身もわかっていたのかも。
そんな時の彼の気持ちを思うと
ほんとうに切なくてイタくて哀しくて
また涙が出る。
彼は
20代にして
電気工事屋から独立して
自分の会社を作った。
いままわりにいる若い子のうち
「困ってるならうちで働けば」
と、厄介になった連中が
たくさんいる。
その会社も
遺された従業員に迷惑かけるわけにいかないって
発病して1年たった時に
たたんでしまった。
それは自分の重病を認めることでもあり
かなりつらい選択だったと思うけど
その潔さは美しかったと思う。
「治ったらまた始めればいいからさ」
なんて言っていたけど。
でも「治る気」ではいたって
奥さんも言っていたし
負け惜しみなんかじゃなかったんだと思う。
事実半年しか生きられない、といわれた病気、
2年も抱えてたんだもんね。
よくがんばったよ。
きっとやりたいことがまだまだ
あったと思う。
今までだって
「やりたいねー」なんて
呑み会で話してたことは
なんでも中心になって実現してきた人。
「いつかアネキの店も出したいと思ってるんだよねー」
と言ってくれたこともある。
あたしがコージーと
出会うことになった
フットサルもバンドも。
まず
きっかけは「麦たば」だったそう。
もうなくなってしまった店だけど
この日来ていたマスター夫妻の
やっていた焼き鳥屋に
毎日のように行っていて
そこでずいぶん人脈を作ったみたい。
あたしもスタジオの前後に
何度もお邪魔したことがあって
ここの常連さんが何人もライヴをみに
来てくれたりして。
とにかく
会った人とすぐに打ち解けるという意味で
彼は天才だったと思う。
かく言うあたしもその天才の
毒牙にかかったひとり。
そこの店で
「女の子を呼びたいから」サルチームを作り
「モテたいから」バンドを作る。
・・ってまるで中坊じゃんかよ!!
別々のサルチームを
ミックスしてチームを作って対戦しようという企画
「ミックスジュース」で会ったのが
最初だったと思う。
あたしの第一印象を彼は
「アネキは最初から恐かったんだよ、
点とれなきゃ勝てねーんだよ!って」
とよく言ってた。
そのあと
しばらくあいてからだと思うけど
このチーム「あほんたーれ」の練習に
人が足りないと誘ってもらったことがあり
参加したあとのファミレスで
バンドの話が出た。
「キーボード弾ける子さがしてるんだけど」
明らかに若い女の子紹介して、という
ニュアンスだったんだけど
「実はあたし弾けるんだけどだめ?」
と、乗っかったのが最初。
すると意外にも
「ほんとですか!ぜひ明日来てください、
スタジオ入るんで!」
今思えばこんなおばちゃんを
二つ返事でいてくれたメンバーの懐の深さは
当時から変わらない。
まあこれほど年が違うとは
彼らも思ってはいなかったようだけど。
スタジオであらためて
メンバーを紹介されると
まさきととりちゃんは
ひとまわりも下。
一番年が近かったのが
コージーで。
そんなこともあり
しばらくはコージーとしか
なじんでなかったような気もする。
キーボードで入っておきながら
途中から「ギター弾いてもいい?」と
ギターを持ち込んだところから
同じパートになってしまったせいもあるけど。
でもなんとなく気を遣ってくれて
いつもそばにいたり
声をかけてくれてたように思う。
「姐さん、俺よりうまいもんな」と
持ち上げてくれたり。
とにかく彼はあたしがバンドにいるにあたって
重要な人だった。
で、このバンドが
なんとも楽しかった。
実はドラマーとあたし以外は
初心者なので
ただただ楽しむことだけを目的に
下手っぴでも構わない。
練習嫌いライブ好き
スタジオではまず乾杯からスタート。
スタジオ内での
練習不足、技量不足への
プレッシャーで楽しめない
今までのバンドとは
まったく違うこの世界。
ほんとに楽しいことを
追求しているのが
彼らだった。
メンバーの性格も奇跡的な
組み合わせだと思う。
誰一人いらいらしない、
くだらないギャグでいつまでも
笑ってられる。
時には中休みの酒が長すぎて
スタジオの時間が
半分ぐらいになってしまうことも。
スタジオのあとも呑むのにね。
だから何年も同じ曲をやってる。
それも簡単なブルーハーツ中心。
そのブルーハーツを
コージーがいつも間違えるのも
スタジオの笑いのひとつだった。
「終わらない歌」のイントロが
それだった。
いつもフレットを同じように
ずらして弾いてしまうあの
「気持ち悪い」音が懐かしい。
その楽譜を持っていって
棺に入れてもらえるよう
お願いした。
コージーいつも間違えるからね。
でだしが肝心なのに。
あっちの世界に
すんなり入れるようにね。
ちょうど
「きのう金縛りにあって
こうじさんと話して
ピック渡す約束したんです」
というとりちゃんのピックと合わせて
先にデビューしといてもらいましょうか。
1時間ぐらい
コージーの顔を眺めながら
泣いたり笑ったり
みんなで話しをした。
お葬式はしない、というところに
強引に乗り込んだ形だったけど
これだけゆっくり最後の顔を
見ることが出来て
彼へのみんなの思いも
届いたんじゃないかと思う。
最後にひとりずつお別れを、
と言われて
それぞれが涙ながらに
嗚咽をもらしたりして
声をかける。
そんなみんなに
「伝わってると思います」
「喜んでると思います」
と、声をかけてくださる
奥さんの態度は
ほんとうにすごかった。
自分ももちろん
どんなに年をとっていても
ああできるもんじゃないと思う。
しかもたぶん彼女は30そこそこだ。
コージーったら
見る目があったのかなかったのか。
どちらにしてもしあわせな男だよ。
あたしの番がきて
言葉では
ギター練習しとけよ、
またやろうね。
としかいえなかったけど
とにかくいろんな人に出会わせてくれ
楽しい時間を作ってくれたことに
ありがとうの気持ちをこめて
合掌した。
冷たく、硬くなった顔にも
さわらせてもらったけど
ほんとうに
「どっきりだよ!」って
いきなり起き上がってきそうなくらい
すべすべしていて
信じられなかった。
会いに来なかった
おわびは口にできなかったけど
きっと伝わっていたと思う。
そんなこと口にしなくてもわかるくらい
彼とは心の通じた友だったと思える。
ひょんなことで出会って
バンドの練習といっても
月に一度、ひどい時は
年に二回ぐらいの時もあって
でも最初に会ったのが
2003年だから
ずいぶん長いつきあいに
なってたんだな。
名残惜しいけど
部屋をあとにして
みんなで駐車場まで歩く。
来た時の重苦しい顔とは
みんなちょっと違ったような気がする。
コージーの安らかな顔を見れたこと、
そして奥さんに
「見本になったんだから
みなさん健康には気をつけてくださいって
こうちゃん言ってますよ」
なんてはげまされちゃったりして
なんだかもうありがとうなのでした。
帰り道
ヤストキに
「姐さんの結婚式見せられなかったですね」
うーん!まったくだ!
駐車場で出た
これから川崎に帰ってメシでも、
の話には乗っかることにする。
コージーも好きだった
「オサヤン」というホルモン屋へ。
車を置いてくるとか
着替えに行く、という人もあり
たまたま最初に呑みだしたのが
まさき、とり、やすときの
バンドメンバーだった。
テーブルの端には
コージー用に
瓶ビールとビアグラスを置く。
あえて「乾杯」と
グラスをあわせると
ほんとうに一緒に飲んでる気分。
悲しさより
ずっと我慢していたお酒を
コージーも呑んでくれてるんじゃないかって
そんな気持ちにほんとうになった。
「コージーこれ食べる?」
「コウジさん冷めちゃいましたね、
焼き直します、肉」
と、自然に会話しながら
ああほんとうにいいメンバーに
出会えたなって。
でももうここにコージーがいることは
ないんだって、
また思い出して泣く。
「おれも隙間あるとさみしくなります、
こうじさん、兄ちゃんみたいだったから。」
と、笑ったり悲しがったりする
とりちゃん。
「コウジさんは俺を好きすぎたな」
というまさきに
「いや俺の方が」と言う
とりちゃんと自慢しあいになったり。
そこへやってきた
すがっちをうっかり
「コウジさん」と呼んじゃったり。
そこへ
一緒に会いにいった人たちが
戻ってきたり
急遽声をかけた
昔の呑み仲間が
ひとりふたりとあらわれたりして。
結局20人近い集団と化してしまった。
そして人が来るたびに
「コウジさんと乾杯してください、
ここにいるから!」と
来る人たちに感謝する
うちのメンバーたち。
ほんとうにいいやつらなのだ。
途中
夕方には来れなかった
もうひとりのヴォーカルヤスからも
連絡がある。
「会いに行ってきたよ」って。
「ヤスさん、行ってくれたんですね、
俺ほんとうれしいっす!」と
とりちゃんまた涙ぐむ。
って群馬から来たあんたも
えらいけどね!
みんな
それぞれのコージーとの思い出話をして
ここそこで
泣いたり笑ったり、、、。
まだメールの返信を
くれてた頃
スカイツリーの構造を詳細に説明する
テレビを観て
「すげーらしいね。
できたら見に行くからアネキよろしく」
なんて言ってた。
その時冗談で
「登る前に死ぬなよ」なんて言ってたぐらい
元気だったし
あたしはまさかって思っていたんだけど
彼自身はどう思っていたんだろう?
と、思うとほんとにごめんて言いたい。
発病の時も
みんな信じたくないから
深刻な方向に持ってかないよう持ってかないよう
いつもと変わらず笑いあっていたけど
本人は不安だったんだろうな。
でも認めてしまったら
本当になっちゃうんじゃないかっていう
恐れもあたしたちの中にはあって
いま思えば思いやりがたりなかったと思う。
きっとあたしたちに見えないところで
痛みや不安と闘っていたと思うから。
そのことは後悔してる。
でも
何をやってもどんな関係でいても
後悔しないってことはないよね。
きっと死に目に会えたとしても
やっぱり何かを後悔するんだよね。
そんな話もして。
前は
いつも一緒にいる連中の
「ザ・川崎」の乗りに
気後れして
コージーの影で
おとなしくしていたあたしだけど
いつの間にか昨日来ている人たちとは
いろんな話をして
涙流しあいながら
たくさんハグもした。
これもそれも
みんなコージーのおかげなんだね。
このあと
店にケイタイを置いてくる、という
失態も起したのだけど
実はそのケイタイ、
コージーの杯の前にあったって。
帰りがけに最後の「乾杯」」をしなかったからか
まだ帰るなよ、か
また川崎にケイタイ取りに来いよ、か
コージーのちょっとした
イタズラだったんだと思う。
この先
スタジオに入ったり
何かの時に
彼の存在がいないということを
強烈に感じる時が
来るとは思うのだけど
とりあえず今は
苦しかった痛みから解放された彼が
すぐ近くにいるような気がしてならない。
会いたくても会えなかった時よりも
もっと近くに
思えばすぐ近くで話を聞いていてくれそうな
何かあっても助けてくれそうな
そんな気持ちになってる。
そしてたとえ自分に死が突然訪れても
あっちに行けばまたコージーが
楽しいイベントを用意していてくれるんじゃないかって
死ぬことが恐くなくなったような
気がしてる。
とりあえず今はね。
それがいまの
あたしの心境。
今日は雨だったね。
彼は今日荼毘にふされました。
悲しみの雨って
あるんだと思う。
コージーに会えてよかったよ。
大好きだから
安らかに眠ってね。
そしていつでも呼んだら
会いに来てよね。
借りっぱなしのオーヴァードライヴ。
形見になっちゃったな。

「借りっぱなしのオーバードライブ~春が来る前に逝く」への2件のフィードバック

  1. SECRET: 0
    PASS:
    全然関係のないただの通行人で偶然このページにたどり着き、たまたま最初の一文に目を通したら結局最後まで読んでしまいました。
    コージーさんのご冥福をお祈り致します。

  2. SECRET: 0
    PASS:
    通行人様。
    ありがとうございます。コージーも喜んでると思います。
    偶然きのう自分でもここを読んでいたところなんです、
    不思議ですね。
    新しい誰かが今は亡き彼のことを知ってくれるとは
    ここに書いてることも無駄じゃないってことですね。
    コメントしていただいたおかげでそんな気持ちにも
    なることができました。
    ありがとうございました~。

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